【インドネシア・ジャカルタ】独立宣言文起草記念館 Museum Perumusan Naskah PROKLAMASI
インドネシアへ旅行(あるいは所用で渡航)した時にでも立ち寄っていただきたい、インドネシア独立(または独立戦争)に関連する見どころを紹介していくシリーズ・・・
その 2
ジャカルタ(Jakarta)
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独立宣言文起草記念館
1945 年 8 月 17 日にスカルノ(Soekarno)とモハマド・ハッタ(Mohammad Hatta)によって独立宣言された…
ということは、当然、独立宣言文があります。
その独立宣言の草案を作った場所が、独立宣言文起草記念館(Museum Perumusan Naskah PROKLAMASI)として、ジャカルタ市内に残っています。
museum:博物館、記念館
perumusan:公式
naskah:草案
Proklamasi:インドネシア独立宣言
公式サイト:http://munasprok.or.id/
入館料:大人 2,000 ルピア(約20円)
残念ながら内部は撮影禁止(訪問した当時)でしたので、自身での撮影画像は外観とチケットしかありません…
よって、ニュースサイトなどからの引用で内部を少しだけ紹介します。
Tribunnews.com 内の本記念館紹介ページ
http://www.tribunnews.com/images/regional/view/733471/museum-naskah-proklamasi-dipercantik から引用
大手紙 KOMPAS のウェブサイト内
https://nasional.kompas.com/read/2017/08/15/06060001/read-brandzview.html?page=3から引用
Tribunnews.com 内のニュース記事
http://wartakota.tribunnews.com/2014/03/16/jokowi-baru-pertama-kali-kunjungi-museum-perumusan-proklamasiから引用
ちなみにこの画像(3枚目)のニュースは、ジョコウィ(Jokowi)ことインドネシア共和国第 7 代(現)大統領ジョコ・ウィドド(Joko Widodo)氏がジャカルタ特別州知事時代の 2014 年 3 月 16 日に、本記念館を訪れた時のものです。
ジョコウィの横の壁画のようなものは、独立宣言文です。
PROKLAMASI
Kami bangsa Indonesia dengan ini menjatakan kemerdekaan Indonesia.
Hal-hal jang mengenai pemindahan kekoeasaan d.l.l., diselenggarakan
dengan tjara seksama dan dalam tempo jang sesingkat-singkatnja.
Djakarta, hari 17 boelan 8 tahoen 05
Atas nama bangsa Indonesia.
Soekarno / Hatta.宣言
我々インドネシア民族は、この宣言とともに、インドネシアの独立を宣言する。
権力委譲その他に関する事柄は、慎重かつ可能な限り迅速に行われる。
ジャカルタ、05 年 8 月 17 日
インドネシア民族の名において
スカルノ / ハッタ
注:
通常の「宣言」は deklarasi が使われる。「インドネシア独立宣言」にのみ Proklamasi の単語が使われる。
bangsa Indonesia は インドネシア国民 のほうがより適切であるが、まだ独立国家の国民ではなかったので「インドネシア民族」とした。
dengan ini:直訳は「これとともに」。「これ」が指すのは Proklamasi すなわち、この独立宣言。
menjatakan は旧字体で、現字体は menyatakan(表明する、布告する、宣言する、等の意)。
jang は旧字体で、現字体は yang。関係詞(英語でいうthat )。
kekoeasaan は旧字体で、現字体は kekuasaan(権力)。
d.l.l.:dan lain lain(等々)の略。現代でも dll. は、よく使われる。
tjara は旧字体で、現字体は cara(方法)。
seksama:意味として、正確に / 慎重に / 完全に が該当する。完全に と訳す人と 慎重に と訳す人がいるが、私のごく親しいインドネシア人曰く、ここでのニュアンスは「慎重に」だそうです。
dalam tempo jang (yang) sesingkat-singkatnja は直訳すると「できるだけ早い時期にて」。可能な限り迅速に と意訳した。
–nja(旧字体)⇔ –nya(現字体)
Djakarta は旧字体で、現字体は Jakarta(ジャカルタ)
boelan は旧字体で、現字体は bulan(月)
tahoen は旧字体で、現字体は tahun(年)
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解説
1920 年代、まだインドネシアが蘭領東インドと呼ばれ、オランダ植民地として抑圧搾取されていた時代に建てられた洋館です。
1942 年に旧大日本帝国軍が進駐しオランダを駆逐、占領後、海軍少将・前田精(まえだ ただし)の公邸として終戦直後まで使われました。
終戦翌日の 1945 年 8 月 16 日、前田少将はスカルノ(後の初代大統領)やモハマド・ハッタ(後の初代副大統領)などを自分の公邸に招き入れ、16 日 23 時から翌 17 日午前 2 時過ぎまでインドネシア独立宣言の打ち合わせと宣言文の草案作りが行われました。
その後、スカルノの私邸に移り、1945 年 8 月 17 日午前 10 時、独立が宣言されました。
(その後、約 4 年間のオランダとの戦争(インドネシア独立戦争)に突入するのですが、その話はまた後日)
ちなみに、この時の独立宣言文の日付は、05 年 8 月 17 日 となっています。
05 年、すなわち、皇紀 2605 年、という意味です。
皇紀:神武天皇即位紀元 を指し、初代・神武天皇が即位したとされる紀元前 660 年(2 月 11 日)を皇紀元年として使われた年号。戦前はよく使われたが戦後はほとんど使われない。皇紀 2605 年は 1945 年(昭和 20 年)。
但し、独立宣言読み上げ時は 1945 年 8 月 17 日 になっており、これが公式な年月日となっています。
独立宣言の起草に使われたこの建物は、その後、、、
独立戦争中は英蘭連合軍にジャカルタを占領されて英軍の総司令部となり、真の独立達成後はインドネシア財務省の管轄下に置かれました。
1961 年から 1981 年は英国大使館として使われ、その後はインドネシア教育文化省の管轄下に置かれ、1984 年に独立宣言文起草記念館として整備され、現在に至っております。
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